
ニャア~ゴ♪

皆さんは、このネコ知っていますか!?
JR黒姫駅近くの一茶記念館。ねこ館長「うみ」です!!
先代ねこ館長そらが旅に行ったまま帰ってこないので、今はうみが館長となって一茶記念館を守っています!
なかなかの貫禄でしょ♪♪♪

●一茶記念館●

【特別展】一茶の旅 -江戸からふるさとへー
前期:長沼の門人達 4月16日(金)~6月27日(日)
後期:江戸の俳人達 7月1日(木)~8月31日(火)
【企画展】一茶とカエル展
9月4日(土)~平成23年3月31日(木)
【一茶記念館開館50周年記念イベント】
6月27日(日):記念講演「良寛と一茶」講師:矢羽 勝幸氏
フルートとピアノによる日本の歌コンサート
9月23日(木):一茶と遊ぼう!!
開館期間 3月20日~11月30日(通常営業)
開館時間 午前9:00~午後5:00
休館日 年末年始
※冬期営業 12月1日~3月19日の間も年末年始を除き見学可能
但し、土・日・祝日は要予約
見学希望者は事前に
電話(026-255-3741)にご連絡ください。
入館料 おとな(高校生以上) 500円(450円)
こども(小中学生) 300円(260円)
※( )内は20名以上の団体料金
※冬期間は半額(おとな250円・こども150円)
駐車場 無料駐車場完備(大型も可)
お問合せ026-255-3741
是非。うみにも会いに来て下さいね☆☆
(野尻湖湖畔から望む早春の野尻湖と黒姫山)
黒姫山のなだらかな稜線と野尻湖、琵琶島が見えます。
(旧野尻湖ホテルから黒姫山と野尻湖)
新緑の時期で湖畔の紅葉の時期の写真ではありませんが、目前に広がる景色は
東山魁夷さんが描いた「光昏」(1955年、日本芸術院蔵)の構図です。
東山さんは1954年頃、木造3階建ての洋風建築でかやぶき屋根が特徴的だった「野尻湖ホテル」を訪れています。同ホテルは36年(昭和11年)、国策で主に外国人向けとして建設され、東山さんはここに秋と春、宿泊しました。
当時は夏季営業が中心でした。
同ホテルを東山さんが初めて訪れたのはオフシーズンの晩秋。
部屋の窓から野尻湖と黒姫山をスケッチしました。
この風景が気に入っていた東山さんは、エッセー「野尻湖」で「部屋から見える自然の変貌の美しさは、いくら眺めていても飽きないものである」と記しています。
しかし、東山さんはこの風景について「空が青く湖水も青く、パノラマのようなこの構図では、到底ものにならない」という理由でしばらく絵の題材にはしなかったといいます。
そんな時、東山さんが考え付いたのが、空を金色、湖水を黒色に描くことでした。
「空想ではなく実感として迫ってきた」)という風景を、東山さんは「日展」への出品作とすることを決め、早春、再び同ホテルを訪れて、風景をスケッチしました。
そうして描かれた「光昏」は56年に日本芸術院賞に選ばれ、東山さんの代表作のひとつとして、多くの人々に親しまれている。
一方、作品の舞台となった野尻湖ホテルは97年、営業を終了しました。その後売却され、建て替えのために取り壊されたが、跡地は手付かずで残されたままとなっています。現在、玄関前のロータリー跡だけが、かつてホテルだったことを今に伝えています。
また、東山さんが滞在されて8年後の 1963 年夏、皇太子ご夫妻( 現天皇皇后両陛下) が4 日間、ご静養を兼ねて、旧野尻湖ホテルにご滞在されました。
8 月5 日、国鉄柏原駅( 現JR 黒姫駅) に降り立たれたご夫妻は、町民挙げ
ての大歓迎を受け、沿道は人で埋め尽くされたそうです。
当時の野尻湖は、すでにヨットを楽しむ観光地として有名でした。両殿下も
ヨットにご乗船を希望され、小松屋ホテルの加藤祐一さん(故人)が操縦を任さ
れました。この時お乗りになったヨットは、わずか一週間前に届いたばかりの新品。
そこで、皇太子殿下にお願いして命名していただいたそうです。その名も「岬みさき」号。
今でもホテルの倉庫に大切に保管されています。
話上手の加藤さんのご案内を、両殿下は大変お喜びになり、予定時間を大幅
に延長して楽しまれたそうです。また、操縦中の加藤さんに、しぶきを拭くよう
にと美智子様がお渡しになったハンカチをはじめ、殿下のお召し物やタバコな
どの恩賜を受けました。それにとどまらず、十数年後、加藤さんが不慮の事故
でお亡くなりになった際には、弔電までいただいたとのことで、ヨットでの体験が、
両殿下に深いご印象を残したであろうことが偲しのばれます。
ヨットの他にも、モーターボートで弁天島を訪れられたり、手こぎボートを
楽しまれたり、当時野尻湖ターミナルにあった水族館で魚へのエサやりをされ、
ご滞在に合わせて催された灯ろう流し花火大会をご覧になるなど、両殿下はま
さに野尻湖の夏を凝縮してお楽しみになりました。
それから47 年、時は流れ、人はうつろいましたが、今年ももうすぐ、野尻湖
に夏がやってきます。
そして、今年も野尻湖灯ろう流し花火大会が7月31日(土)に開催されます。
今年で第87回を迎え、全国的にみても大変、歴史のある花火大会で高原の湖「野尻湖」の地形をいかした自然の音響効果はとても迫力を感じます。
信濃町の夏の風物詩としてみなさんに親しまれています。

四季折々の自然が美しい信濃町・黒姫高原。
ここに画家、いわさきちひろさんの
アトリエを兼ねた山荘があります。

敬愛する小林一茶の故郷であるこの地に、
ちひろさんが山荘を建てたのは、1966年、47歳のときです。
建築時、ちひろさんがこだわったのが野尻湖の景観で、
やぐらを組み、湖が見える高さを確かめてから床の高さを決めたといわれています。
この頃、ちひろさんの心にはある変化が訪れていました。
芸術家としてもっと自由でありたいと。
今まで生活のため、夢中で仕事をこなしてきたちひろさん。
しかしこれからは、後世に残るような
自分だけの絵を描きたいと願ったのです。
湖を眺めながら、静かに過ぎていく日々。
自然の息吹をいつでも感じられるこの場所で、
ちひろさんの魂は解放されていきます。
そんな彼女の心は、やがて作品へと形を変えました。
この山荘ができてからちひろは毎年ここで絵本の制作をおこなうようになりました。
宮沢賢治の花や草木にまつわる童話を集めた『花の童話集』や、万葉集の秀歌150首を紹介した『万葉のうた』はこの黒姫で描かれました。
また、「わらびを持つ少女」や「わらびと山つつじ」、「山里のスミレ」などの作品には、ちひろが愛し親しんだ黒姫の自然が息づいています。
未完となった遺作『赤い蝋燭と人魚』(童心社)もこの山荘で描いていました。
いわさきちひろさんはここで、自らの芸術と向き合いました。
子供のように無垢で、まっすぐな眼差しで。
そんな黒姫高原には今も自然の息吹を感じます。
目の前には雄大にそびえる黒姫山と妙高山そして眼下には野尻湖と斑尾山
私たち信濃町民にとっても大切にしていきたいところのひとつです。

全国的にみれば出まわる量などからタケノコといえばモウソウダケのものと思いうかべると思います。
しかし、ここ信濃町に住んでいる人々にとって、タケノコというのは、モウソウタケのものではないのです。
私たちが採るのは、山地に野生するクマササの仲間のチシマサザ
(別名:ネマガリダケ)です。このササの丈は大きくても3メートル位です。
北信濃・黒姫山のほぼ標高1,000メ-トル以上の山麓に野生、群生しています。
6月4日に解禁になり、これから収穫の最盛期を迎えます。
道の駅しなの ふるさと天望館をはじめ町内の販売所ではぞくぞくと収穫された
タケノコが販売されています。


このタケノコは実に美味しいです。格別のごちそうです。
モウソウタケのタケノコなど目じゃないといっては語弊がありますが、とにかく美味です。味がよいので都会の八百屋さんなどでは、高級な山菜として取り扱われているようです。もっとも、関西や四国や九州までは行ってないでしょう。笹竹のタケノコだから、太させぜい2センチ位、それ以上のものはもう固くて食べられないです。
わらびやきのこと違って、笹竹の群生さえあれば誰にでもある程度の収穫が
保証されるので大変な苦労はありますが楽しい山菜採りです。
笹竹のジャングルの中をまるで宇宙遊泳するようなかっこうで採るのですが竹の子を発見しても、竹が密生し薮になっているのでそのままでは手が届きません。
竹の幹などの上に腹這いになるようなかっこうで覆いかぶさって手を伸ばして採ることになります。もちろん、土から20~25センチくらいのものを根元を折るような形で採るわけですが、欲ばって大きいのをとっても結局固くて食べられません。
採ったものをその日にいただくタケノコ汁の味は格別です。
このタケノコは何にでも合うと思います。
時としてサバ(鯖)の水煮の缶詰など、お互いの味をこよなく引き出す組み合
わせとしてつとに有名。これ故に信州・北信では、サバ缶の消費が多いなどと
もいわれるくらいです。
モウソウタケなど皮部分の表面積も大きいですが、中身の図体も大きい。しかし
この根曲り竹の竹の子は、なにしろむくのが大変です。やや太そうなタケノコも
むけばアスパラガスのおおぶり位になってしまいます。タケノコ汁やみそ汁に入れ
るには、とにかくむかなければ始まらないですが、このタケノコ狩では皮をむく作
業が一番根気がいる仕事かもしれない。もっとも、マヨネーズや味噌をつけて
食べてもおいしいので皮付きのまま茹でて、皮むきは各自に任せる手もあります。
タケノコ狩とその味は、北信濃では昔から続く、初夏の風物誌であり味覚です。
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お隣の長野市戸隠ではこの根曲り竹を材料とした竹細工が盛んです。
昔、江戸天領の時代、代官から採取のおすみつきをもらったという歴史もあります。
竹の子の季節にその大切な竹の子をタケノコ狩りの人に取られては大変と、
村人は交代で寝ずの番をするともいいます。
くれぐれも戸隠地籍でのタケノコ狩りは厳禁ですのでご注意を!!
信濃村伝道所の始まりは昭和31年、古間を合併するかたちで信濃村伝道所が設立され、最初の牧師として清水恵三師が迎えらました。当初は柏原上町の民家を借りて牧師宿舎兼集会場としていました。そして3年後の昭和34年、現在の教会堂が建てられました。牧師館が建てられたのはさらに9年後の昭和43年のことです。
教会堂の周りには木々や花々がたくさんありますが、洗礼を受けた人や結婚式を挙げた人たちに記念に植えてもらったり、そうでなくとも庭を大事にすると来る人が次々に珍しいものを植えてくれたそうです。会堂の右側の窓の下は一面、ラズベリーの木があります。「辺境の食卓」にある星の発見以上の喜びをもたらした「ラズベリーパイ」の素材となった木です。教会堂が建って50年ほどですが、庭を埋め尽くした草木、塔より高くなった木々たちが会堂の歴史をすべて見つめ、見守ってきたことでしょう。
そう多くはない地元信者たちの平素の集いも、夏の礼拝には教会から溢れそうに多くなります。避暑地という土地柄、夏に長期滞在する別荘客、また国際村の住人たちもこの教会での夏の再会を心待ちにしているのです。野尻湖の美しさに惹かれて集った宣教師たちが、この寒村への布教にこめた情熱が今もこの伝道所に引き継がれ息づいているようです。
この建築の設計者はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、建築家としてだけでなく、日本の近代に多大な足跡を残しているアメリカ人である。19世紀の後半、合衆国中央部のカンザス州に生まれ、大学を卒業してすぐ24歳で明治時代の晩期に来日、日本人の女性と結婚し、両親や兄弟一家まで日本に呼び、やがて日本国籍を取得、そのまま日本にて84年の生涯を終えるという日本一筋の人生だった。
建築家以外の仕事でも幼稚園、図書館などを経営していた。その中でももっとも身近かなのが、「メンソレータム」の日本での販売をしていたということでしょう。
日本で35年間に設計した物件は、優に1000を越えています。
日本で設計した有名な建物をいくつか上げてみると商業建築では東京駿河台の主婦の友ビル、東京駿河台の山の上ホテル、大阪の大同生命ビル、大阪の大丸心斎橋店、京都支店、京都の東華菜館、学校では関西学院内29棟、同志社内 5棟、青山学院内 5棟、明治学院内 3棟。他にも多数造っており、あの当時建設された日本の名だたるミッションスクールの施設はほとんど彼の設計によるものと言っていいと思います。
信濃町内には、その他にNLA内の野尻集会堂や別荘などもあります。