北国街道巡り 古間宿 野尻宿 柏原宿

町内全域

【古間宿】

 

短夜(みじかよ)を 古間の人の たくみ哉  一茶

古間宿は、鳥居川をはさんで隣接する柏原宿と合宿で、月後半の人馬の継ぎ立てを分担した。

古くから宿場を任され、1583年ころの越後上杉氏の文書があり、これら伝馬宿に関する文書十通二巻は信濃町指定文化財となっている。

当初の伝馬屋敷を「御免許屋敷」といい、35軒であったが、1810年(文化7年)には家数85軒・人数375人・馬36匹となった。

宿の中ほどにある本陣古家には、1868年(明治元年)戊辰戦争で通行した官軍方の関札が残されている。

1818年(文化15年)ころ信州鎌の元祖といわれる荒井津右衛門、小林重左衛門、荒井平右衛門が鍛造技術の向上に努め、その後熊坂村から移り住んだ佐藤要八らが古間鎌を発展させた。

古間の一茶門人には雪居と白飛がいて、一茶はたびたび訪れていた。

 

【野尻宿】

 

そば所(どこ)と 人はいふ也 赤蜻蛉  一茶

野尻宿は信州北端の宿場として重要な位置にあった。

仲町が役屋敷で、はじめは51軒であったが、1781年(天明元年)の絵図によると、役屋敷76軒のうち、間口六間以上の馬役32軒・五間以下の歩行役43軒で、13軒が旅籠屋を営んでいる。

野尻宿は俳句が盛んで多くの一茶門人がいた。

野尻仲町信号の西側に「明治天皇御膳水」の碑があるが、医師竹内又玄の井戸水を献上したものという。先代の迅碩が一茶の父弥五兵衛や、妻きくの診察をしている。

 

【柏原宿】

 

霞(かすむ)やら 雪の降(ふる)やら 古郷山  一茶

柏原宿は野尻と古間の間の宿場で、はじめに伝馬屋敷52軒分がつくられた。

町用水・松並木・宿場の出入口には土手が築かれ、東に飯山道、西に戸隠山道が分岐している。村役人の家は間口が広く宿場の中心部にあるが、次第に屋敷の細分化が進み1822年(文政5年)には112軒になった。

晩年、ふるさとに帰った一茶は間口九間の家を弟と半分に分けて住んだが、1827年(文政10年)閏6月1日の大火により83軒、土蔵25軒が焼失し、一茶の家も類焼した。一茶は焼け残った土蔵に移り住み、11月19日、65年の生涯を閉じた。

一茶記念館では、焼失前の文化文政期の柏原宿を復元している。

 

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